少し長めのプロフィール

はじめまして。都築志摩と申します。

初対面の方には「東京に建、伊勢志摩志摩です。」とお伝えしています。

 

個人の方対象に
ブランディングプロデューサー

法人の方対象に
ショップリサーチコンサルタント(ねぎらいカンパニー認定講師)

 

として活動させていただいています。

 

少し長めのプロフィールにお越しいただき、ありがとうございます。

読んでいただけると嬉しいです。(ちょっと時間ない〜という方はこちらへどうぞ)

 

凝り性で飽き性、自分の未来はどこにある?<高校時代まで編>

 

子どもの頃から、どうやら記憶力は良かったようで、覚える科目はなんでも得意でした。放課後は図書館に入り浸って片っ端から本を読みあさっていました。

 

わたしの知識欲と没頭癖は、おそらく父譲りです。父は高専でドイツ語を教えていて、毎年夏休みには、母、わたし、弟を置いて単身ドイツに1ヶ月研修に行ってしまうほどでした。

 

あまり遊びにも連れて行ってもらえず、子ども用の本もそんなに買ってもらえなかった家庭でしたが、なぜか家には立派な図鑑と美術全集があり、暇さえあれば広げて眺めていました。

 

見ることで興味をひかれ、さらに知りたくなる、という循環がわたしの中で働いていたのかもしれません。

 

ところが、やりたいことにはのめり込むのに、ある程度やったら「もういいかな」とコッソリ放り出す。凝り性で飽き性という困った性格でした。

 

唯一、好きで続いたのは絵を描くことです。手先も器用で、図画工作とか大得意で、作れるモノはなんでも作っていました。(料理も洋裁も得意です。)

 

小学生の頃は、毎日、折り込みチラシの裏にお姫様を描いていました。中学生の頃は、学校にマンガ仲間ができて、一緒に描いていたのはSF(竹宮惠子さんの影響でしょう。笑)、同人活動にも手を染めていました。

 

ところが、前もって準備をするというのが苦手で、何事もいつもギリギリ。学校では忘れ物と遅刻の常連でした。(大人になってからもギリギリ癖は直らず、大学の卒論は締め切り当日10分前まで学生課の前で仕上げていましたし、通信教育の添削課題は、在籍期間ギリギリに慌てて全課題一気に出していました。汗)

 

本腰を入れて高校受験に向けて勉強らしきものを始めたのは、三年生の後半からです。

 

ほったらかしだった進研ゼミの教材にギリギリ真剣に取り組んだ結果、無事に第一志望の高校に入学することができました。

 

高校は県内一の伝統校で、「できる生徒」が入学してくるのが当たり前という雰囲気でした。「よく言えば自由、悪く言えば放任」という校風でしたが、わたしには合っていたみたいです。

 

例年、ほとんどの生徒は3年になると部活をやめ、受験勉強に集中していました。わたしも進路について真剣に考える時期に来ましたが、なかなか自分の進路を決めきれませんでした。

 

絵とか好きだけど、それを一生の仕事にするなんて、無理無理。そんな才能なんてないし。

 

将来何をやりたいのか、わたしには何もありませんでした。

 

野球部員など、3年の夏まで部活を続け、2年計画で浪人覚悟で受験に挑む同級生もいましたが、そこまでの勇気もありませんでした。

 

「家を出たい」「東京は怖い」「英語は苦手」「予備校行きたくない」等、半分消去法で選んだ末、京都女子大学文学部東洋史学科(現:史学科)に入学しました。

 

人生に必要なことはすべて学生ガイドで学んだ<大学時代編>

 

京都で学生時代を送ることになったわたしには、やってみたいことが1つだけありました。

 

それは学生ガイドです。

 

学生ガイドというのは、観光バスに乗車して京都の観光ガイドをする学生のことです。実は、小学校の修学旅行が京都だったのですが、わたしの学校には学生ガイドがついていて、そのことをなぜか強烈に覚えていたのです。

 

わたしは、「京都学生ガイドクラブ」に入り、半年間の教習を受けました。

 

教習は厳しく、ついていけない教習生は、次々ふるい落とされていきました。わたしはなんとかついていくことができて、1回生の秋から学生ガイドとしてデビューしました。

 

学生ガイドの業務範囲は修学旅行等の団体旅行を中心に京都・奈良をはじめとした関西圏一円でした。

 

わたしは4年間で200台以上のバス乗務を行いました。大勢のお客さまの前で、限られた時間内で、必要なことをきちんと説明するスキルは、学生時代に培われました。

 

大学では「歴史は繰り返す」「歴史を動かしているのは、実は政治ではなく経済。結局、土地を手に入れた者が権力を握り、世の中を動かしていく」ということを学びました。

 

もっとも、ガイドの仕事が忙しく、あまり授業には出られなかったのですが。(芸能人か!笑)

 


学生ガイド時代の貴重な写真!

 

学生ガイド時代の話はこちらSTORY.JP)に少し書いていますので、ご興味ある方はお読みいただけると嬉しいです。

 

門前の小僧、成果を出す<会社時代:前編>

 

様々な学びを経て「人と話す仕事がしたい」「モノが動く現場を経験したい」と思うようになり、大学卒業後は、大手流通企業のファッション専門店チェーンに入社しました。

 

学生時代、ガイドの仕事で多忙だったわたしは、レギュラーアルバイトの経験がなく、接客の経験もなかったので、全てがゼロからのスタートでした。

 

2年目には店長になりました。いきなり、月商1,000万円以上の店を任され、3人の新入社員を受け入れました。接客と売場づくりと新人の面倒と、目の回るような日々を過ごしました。

 

3年目には本社に異動となり、人事部採用担当となりました。

 

5年目に教育担当となり、自分の経験を活かして新人店長教育のプログラムづくりに携わりました。

 

4年間の教育担当後、店長として現場復帰して、半年後にマネージャーになったのですが、当時のわたしは、現場経験は新入社員時代を含めて2年半ほどしかなく、不安だらけでした。

 

ところが、教育担当として、受講生の隣で「門前の小僧」となり、様々な現場の悩みや問題を解決する方法を自然に学んでいたわたしは、次々問題が起こっても「なんか、聞いたことある」「どこかの店であったはず」と、なんとか対応ができたのです。

 

また、セミナーで聞いた「イベントで実績を上げた店長の成功事例」をそのまま自分の店でやってみたところ、40坪の店舗で1日300万円、過去最高売上という、大きな成果を上げることができました。

 

「学ぶことによって、経験の少なさは補うことができる」と、教育の効果を実感することができました。

 


初めてのマネージャー時代の貴重写真!
エリア会議で部下の店長たちと。(前列左から2番目がわたしです。)

 

プロデューサー気質が開花!計画化に目覚める<会社時代:中編>

 

その後、現場と本社を行ったり来たりしながら、様々な職種を経験させてもらいました。

 

どちらかと言うと自分が先頭に立って売ることよりも、売れる仕組み、お客さまに喜ばれる仕組みを作る方が得意でした。

 

本社勤務時代は、お客さまを「社員」に読み替えて、社員の仕事がラクになる、社員のスキルが上がり、成果につながるように、を念頭に置いて仕事をしていました。

 

営業企画部の販促担当時は、店舗で使用する販促物の仕様を統一化し、発注から納品までの仕組みを作りました。

 

二度目の教育担当時は、新入社員から幹部社員向けまで、階層別社員教育研修プログラムの企画運営、社内資格制度に伴う社内試験の企画運営を一手に引き受けました。

 

商品企画室でチームでシーズンディレクションを担当していた時は、新業態開発用の資料をつくるために、街に出てファッションリサーチをしたり、ファッション雑誌を読みあさり、何枚ものポジショニングマップをつくっていました。

 

全社ファミリーセールの販促担当として「事前購入型お買い物チケット」「館内案内図」「フリーパーパー用チラシ」等の制作を行い、セールが成功した時は、自分の強みを十分に発揮できている手応えを感じました。

 

このようにプロジェクト型の仕事をするのは、自分に合っていたのだと思います。

 

大きい成果を求められる仕事を中長期的なプロジェクトでプロデュースしていく、しかも自分のペースで進めていける環境があると、最も力を発揮できたようです。

 

最高のパフォーマンスを発揮したい、それも自分のペースでやりたいという欲求が強かったわたしは、どうすればそれが実現するのかと考えました。

 

そもそもが飽きっぽくてギリギリ体質、興味あることにはのめり込むくせに続かないので、パフォーマンスのレベルが一定しません。そのため、上司から、ただ「やってくれ」と指示されただけの仕事は、いつまでも仕上がりませんでした。

 

仕事なんだから、一定期間で一定の成果はきちんと出さないといけない。

 

どうすればそれができるのか?

 

試行錯誤の末、行き着いたのは「結局、計画化しかない」ということです。

 

子どもの頃から、何をするにもいつもギリギリ。日記もお小遣い帳も続いた試しがなく、会社に入ってからも記憶力頼りで、実は何年もスケジュール帳さえ持っていなかったわたしですが、一念発起して計画化に取り組み始めました。

 

仕事の月間計画、週間計画を立てることから始まり、一日のスケジュールを時間単位で組むようになりました。店舗でシフト勤務していた時代には、体調管理しやすいように、家での生活時間管理も始めました。

 

最初の頃は、仕事の日だけ管理していたのですが、休日思いきりだらけてしまうという反動があったので、次第に休日の予定もあらかじめ組んで、その通りに行動するようにし始めました。

 

こう書くと、すごくシステマチックな人間に見えるかもしれませんが、むしろ逆です。

 

元々ルーズで時間に無頓着、人に合わせるより自分のペースで自由に動いていたたちだったからこそ、意識して時間管理した結果、生産性を上げることができるようになった、というのが正しいです。

 

このように、自分の生活習慣の計画化に合わせて、仕事の仕組み化に徹底的に取り組みました。

 

例えば、スタッフの戦力化です。

 

店長が店長としての仕事をするためには、「店長がいなくても回る店」をつくる必要があります。

 

店の状況に合わせて、どんな人を採用して、どのくらいの期間でどのくらい仕事をできるようになってもらうか、採用、仕事の教え方、業務の割り振りまで、それまでの経験をフル活用して、新人スタッフしかいない状況でも、1年間で「自分がいなくても回る」店の仕組みをつくることをめざしていました。

 

その結果、仕組みができあがりかけて、「あ〜、これで楽になる、自分の仕事ができそう!」というタイミングが来ると……。

 

わたしの元にやってきたのは、異動の内示でした。

 

後釜は、大抵新人でした。(なぜなら、仕組みができていたから) わたしは後を任せて、新部署や新店舗の立ち上げを次々に任されることとなりました。

 

自分らしく、働きたい。

 

そんな願望は、会社の中でなかなか叶えられることはありませんでした。それは、わたしに限った話ではありませんでした。

 

例えば……。

 

家族を持っている男性社員の中には、異動に次ぐ異動を繰り返し、何年も単身赴任を続けている人がいました。

結婚しても仕事を続けることを選んでいた女性社員ほとんどは、妊娠をきっかけに退職していきました。

かつて一緒に仕事をしていた尊敬する先輩社員が、病気による長期休職から復職した時、「また一緒に仕事をしたい」と望んだものの、先輩に与えられたのは家から遠い店舗での勤務でした。

 

わたしは、自分らしい仕事の仕方は、会社では手に入れることができないのではないかと、半ば諦めの境地になりつつありました。

 


会社の労働組合で中央執行委員をしていた時、編集長として発行していた組合広報紙

 

やりたいことは自分で選んでいい!と気づく<会社時代:後編>

 

その後、営業マネージャーとして福岡に赴任していた時のことです。

 

とあるセミナーで知り合った、わたしよりも少し年上の女性Yさんと仲良くなり、時々食事に行くようになったのですが、ある時、聞かれたのです。

 

「都築さんは、将来はどうしたいの? どんなことをやっていきたいの?」

 

わたしは答えられませんでした。

 

「どうせすぐ異動させられてしまう」と、半ば諦めていたわたしは、短いスパンでの目標しか持てずにいました。

 

将来の夢、なりたい未来の姿を持っていなかったことに、改めて気がついたのです。自分の人生なのに、おそろしいほど会社に依存していたのです。

 

同時に、「これから何をしていきたいのか、自分で選んでいい」という選択肢があることに初めて気がつきました。

 

Yさんとの出会いを通して、わたしは将来どうしたいのか、真剣に考えるようになりました。

 

2012年の6月、3年半ぶりに本社に異動になりました。与えられた仕事は、「業務改善」でした。

 

実は2年前に会社が合併をしていたのですが、2年経っても、2社のルールがそれぞれに運用されていて、相乗効果が発揮されていませんした。

 

「2つの会社のルールを、どうやって1つにまとめるか?」考えながら仕事をしつつ、漠然と「会社で働き続けること」を疑問に感じ始めていたわたしは、ある日、ふと周りを見渡してみました。

 

みんな平和そうな顔で仕事をしていました。

 

会社と自分が置かれている状況に危機感を感じていないのでは……。と背中が寒くなりました。

 

なんだ、これは。

 

「会社は潰れないだろう」と安心しきっている社員には、わたしの悩みは全く理解されることはないだろうと思うと、初めて愕然となりました。このままだと、わたしは会社の中で茹で上がったカエルになってしまうと思いました。

 

わたしは腹を括りました。

 

与えられた仕事をざっとリストにしてみると、おそらく来年の2月までには終わると予測できました。

 

「合併に伴う2社のルールと仕組みの共通化」が終われば、きっとまた異動させられてしまう。そうならないうちに、辞めてしまおう。そう、決意しました。

 

会社に残る気がなくなったわたしは、パワーバランスも何も気にせず、ゼロベースで社内ルールと社内言語の共通化、ブランド毎の売場づくりマニュアルの作成に取り組みました。

 

売場づくりマニュアルの作成は、社外の専門コンサルタントと、各事業部の選抜メンバーと、わたしの3者で取り組んだのですが、得難い経験でした。

 

それまで、部署横断的な仕事の仕方をあまりしたことがなかったわたしは、最初の頃、自分の役割をうまく果たすことができず、スケジューリングやゴール設定にやたら手間どり、無駄に時間をかけてしまいました。

 

後々「これがプロジェクトマネジメントなんだ。わたしがプロジェクトマネージャーとして仕切っていかないと進まないんだ」と悟り、それからは最初の倍のスピードでプロジェクトを進めていきました。

 

他、新店出店時には新人研修で全国を回り、E-ラーニングを活用した接客教育の導入、その年から始まった社内接客ロープレ大会の企画運営にも関わりました。

 

最後の本社勤務は約8ヶ月間でしたが、我ながら、2年分の仕事はしたと思います。

 

やるべき仕事は全てやりきり、わたしは2013年の2月末で25年働いた会社を退職しました。

 

過去を封印!起業家人生スタート<独立後〜現在:前編>

 

新しい仕事として、わたしが考えていたのは「店長の問題解決や店舗の業務改善のお手伝い」の事業化でした。ずっと会社で取り組んできたことであり、「これならできる」と自信があったからです。

 

しかし、わたしには、このアイディアを現実化するハードルは高いものでした。

 

在職中から少しずつ準備を始めようとしたものの、そもそも何から手をつけたらいいのかがわかりませんでした。

 

そんな折、会社を辞める直前、参加したイベントで出会った人に紹介されて、退職と同時に「起業塾」に入りました。

 

ビジネスとは自分がやりたいことをやるのではなく、お客さまに必要とされるものをやらないと成功しない

 

たったひとりの理想のお客さまを決めて、やることを絞り込んで、理想のお客さまに選ばれることをめざす

 

息を吸うように楽にできることの中に、他の人が苦手としていることがある。それがビジネスになる

 

起業塾で、わたしは、自分が思い描いていた「起業」が甘いものだったと知りました。

 

同時に、わたしが考えていた事業は「自分ができることをやる」に過ぎず、「お客さまに必要とされているサービスを提供する」というビジネスの基本にさえ沿っていなかったことに気がつきました。

 

わたしが積み重ねてきた25年間の知識やスキルは、会社の中でしか役に立たないと悟り、一旦自分の過去や経験を封印して、ゼロベースからビジネスのつくり方を学ぶことにしました。

 

トレーニングの一環として、世の中のヒット商品、人気ブランドの分析を始め、「どんなお客さまに、なぜ選ばれているのか」をブログ等で発信しはじめました。

 

そして、「たったひとりの理想のお客さまを絞り込む」「強みを活かして自分にしかできないビジネスをつくる」といったテーマで、少しずつ、セミナーを開いたり、個人コンサルを請け負ったりし始めました。

 

 

ずっと「組織の中で働くのはもうゴメン。人に合わせるのは面倒だし、息苦しい」と思っていたわたしは、ひとりで何もかも決めて進められるという状況は、自分が求めていたものだと思っていました。

 

しかし、そう簡単にうまくことは運びません。

 

念願の自由を手に入れることができたものの、自分ひとりで何からどうやればいいのか自信がなく、未知の世界に進むことが怖くなってしまいました。

 

「◯◯すれば稼げる」的なセミナーに行ってみたり、知り合った人とビジネスパートナーとなって新しいことを始めてみましたが、しっくりきません。

 

やることはわかっているし、こうすればいいとわかっているのに、どうしてできないのか。

 

新たな悩みが生まれ、前に進むことも戻ることもできずに、立ち止まってしまいました。引きこもりに近い状態が数ヶ月間続きました。

 

封印したはずのキャリアが求められている!<独立後〜現在:後編>

 

半分引きこもり状態ながら、依頼された個人コンサルだけは細々と請け負っていたのですが、ある日、お客さまのMさんのFacebookのタイムラインである人の名前を見つけました。

 

その人の名前は兼重日奈子先生

 

わたしはそのお名前を知っていました。

 

10年ほど前、二度目の社員教育担当をしていた頃、兼重日奈子先生の著書「ファッション販売員の奮戦記」を新入社員の必読図書として紹介していました。

 

思いがけず「本の人」の名前を見かけたわたしは、思わずMさんに「兼重先生、知ってるの?」とコメントしました。

 

これがきっかけとなり、兼重日奈子先生と知り合うことができました。そして、覆面調査の仕事を請け負ったことから、少しずつ「ねぎらいカンパニー」の仕事をするようになったのです。

 

兼重日奈子先生の求めに応じて、いくつものショッピングセンターでリサーチ&報告書作成、店長面談、グループコンサルティングといった、一連の流れで仕事をさせていただくことになりました。

 

これらの仕事では、自分がかつて会社の仕事でやってきた「仕組み化」「時間管理」「問題解決」等のスキルが全て使えました。

 

過去の経験は会社を離れた場所では役に立たないということはなかったのです。必要とされる場はあったのです。わたしが、役に立たないと思い込んでいただけだったのです。

 


兼重日奈子先生(左)とわたし。

 

日奈子先生の「ねぎらい」と「はげまし」のおかげで、わたしは自分で自分の価値に気づくことができました。

 

わたしが封印してきたことこそが、かけがえのない財産だと気づかせてくれました。

 

「売れるにはどうしたらいいのか」

「お客さまから選ばれるにはどうしたらいいのか」

 

ビジネスを学び始めて以来、ずっと個人のお客さまを相手に「強みを活かして選ばれるためには」について考え続けてきたわたしは、同じ考え方が企業に対しても使えることを知りました。

 

また、日奈子先生を通じて、新たな出会いが広がり、人が自分に対して求めているものを知ることができました。

 

それは、「ブランディング・プロデュース」でした。

 

最後に。わたしがやりたいこと。

 

「求められるがままに仕事をしてきたけれど、自分が求められている理由がわからない」

「本当にやりたい仕事がお客さまに求められているのか、自信がない」

「そもそも、自分が本当にやりたいことを絞り込むことができない」

 

今、わたしはこのようなお悩みを持っているお客さまを対象に、「お客さまに選ばれる」ためのブランディング・プロデュースをご提案しています。

 

会社時代、様々な職種を経験して自然と身についた「こうすればお客さまは欲しくなる」「お客さまはこんなことに興味を持つ」というお客さま視点から、「お客さまに魅力的に見えるように強みを絞り込み、自分にしかできないサービスを作り上げる」プロデュースをしています。

 

わたしがお役に立ちたいのは、わたしと同じように会社等で経験を積んだ先に、会社にとらわれずに自分の強みを発揮したいと考えている、大人のお客さまです。

 

それは、過去のわたし自身の姿であり、

 

わたしの同期、先輩、後輩をはじめとする、「自分の居場所はここしかない」と思い込んで、自分で自分を組織に縛り付けて、過去の経験やスキルを活かす場を自分で見つけることができないでいる方々の姿でもあります。

 

どんな方にも自分なりの強みがあります。自分にとっては何の苦もなく、息を吸うように楽にできることでも、それを苦手としている人は世の中にいますので、必ず誰かのお役に立つことができます。

 

将来的には、小売業界の販売員経験者のセカンドキャリア構築のために、ブランディング・プロデュースでお役に立ちたいと思っています。

 

そして、ゆくゆくは日本の「おもてなし」や「ねぎらい」が世界のスタンダードになるように、ビジネスモデルをプロデュースできたら、最高ですね。

 

わたしを育ててくれた業界にご恩返しができれば、これほど嬉しいことはありません。

 

 

 

大人のためのブランディングプロデューサー
ショップリサーチコンサルタント
ねぎらいカンパニー認定講師

Ms.Brain Branding Produce Project主宰

都築 志摩